バッハの「G線上のアリア」を聴いているうちに、バイオリンの一番太いG線の弦一本だけでメロディーを弾こうだなんて、ひょっとして、バッハ、手抜きしてない?と思ったので、調べてみたら、そうではなかったことは記事にしました。
しかしながら、考えてみると、これはバッハの手抜きではないか、と思われる曲がわりとあることが分かって来ました。そこで、「バッハ手抜き疑惑」を検証してみることにしました。
バッハの手抜きその1
「フーガの技法」は「手抜きの技法」である
「フーガ」というのは、イタリア語で fuga =「逃走」つまり逃げることを意味します。
逃げるものを追いかけたくなるのは、犬猫だけではなく人間も同じようですね。
輪唱「かえるの歌」のように、同じメロディーをちょっとずらして追いかけるように演奏したり歌ったりすればハモって行くような音楽のことをフーガ、「遁走(とんそう)曲」とか「追走(ついそう)曲」と呼んだりします。
「恋のフーガ」なんて曲もありましたね。逃げて行く恋人を追いかける歌詞でした。
この形式なら、ハーモニーを作るのに、一つのメロディーだけを工夫して作れば良いのですから、これは楽ちんですね。
つまり手抜きの作曲テクニックなわけです。
バッハの「フーガの技法」も、こうすれば手抜きできるよ、という「手抜きの技法」なわけですね。
「フーガの技法」には楽器の指定がないので、こちらの演奏では、4人の人の声から始まって、いろいろな楽器の四つの組み合わせで演奏して行きます。全部で1時間半もかかりますが、最後には大合唱並びに大合奏で終わります。
Bach - The Art of Fugue BWV 1080 - Sato | Netherlands Bach Society
バッハの手抜きその2
「平均律クラヴィア曲集」は、論点ずらしである
「平均律クラヴィア曲集(48の前奏曲とフーガ)」の前奏曲(プレリュード)にしても、同じメロディーパターンの繰り返しが基本です。
その繰り返しの中のキーポイント、焦点になる音の音程を、曲の進行とともにちょっとずつ上下にずらして変えて行くと、聴衆は次はどんなふうに変わって行くんだろう、と、退屈せずについて来てくれます。
作曲する方としては、大部分が繰り返しのメロディーのうちのほんの一部だけ、ちょこっと変えて行けば良いだけなので、これも楽ちんです。
それに続く「フーガ」も「手抜き音楽」であることは、前項で見た通りで、
やはり、手抜きもいいところなのであります。
ピアニスト4人の聴き比べ
こちらの映像では、ピアノの名手4人の聴き比べになっています。
⚫️エトヴィン・フィッシャー、
⚫️グレン・グールド(自身の歌声が聞こえます)、
⚫️スヴャトスラフ・リヒテル、
⚫️ワンダ・ランドフスカ
の、4人の演奏です。
バッハ平均律クラヴィーア曲集No.1 聴き比べ
私は、スヴャトスラフ・リヒテルさんの演奏が良いと思いました。
バッハの和音の世界、ハーモニーの海にどっぷりと浸れる感じがします。
グレン・グールドさんは、歌うなら歌うで、いっそのこともっと大きな声で歌って、「グノーのアベマリア」みたいに、曲に取り込んでしまえば良いのに、と思ってしまいます。中途半端に歌声が聞こえて来るので気になってしょうがないですね。
あと、グレン・グールドさんで気になるのは、その演奏姿勢。着座位置がずいぶん低いのに、猫背なんですね。
私の知り合いで、スタイルが良いのに「猫背が気になる」、とおっしゃる女性がいるのですが、その演奏姿勢を横から見ると、そもそも椅子が高すぎるように見え、その姿勢だと自然に前屈みになってしまうのではないか、と思っていました。もうちょっと椅子を低くすると、背筋も自然に伸びるのではないかと。
Wikiより、グレン・グールド
しかしながら、グレングールドさんの演奏姿勢を思い出すと、着座位置が低くても、猫背の人は猫背なんだなあと、考え直しました。
その人にとって弾きやすい姿勢が一番ですね。
バッハの手抜きその3
「三声のインヴェンション(シンフォニア)」は人員削減による省力化である
「三声」とは三つのメロディーという意味です。
三つの声部、つまり三つのメロディーが絡(から)み合って、心地よい和音を形成して行く音楽なので、本来なら3人の歌手が歌うか、3つの弦楽器が演奏するか、キーボードを3本の手、つまり一人の両手と、もう一人の片手で弾くのが順当な音楽です。
なのに、その三つのメロディーを無理やり2本の手だけで、一人だけで演奏してしまおうという、とんでもない発想から出来た音楽が、「三声のインヴェンション(シンフォニア)」の音楽です。
三つのメロディーを2本の手で弾く、そうすれば、演奏者が2人必要なところ、一人で済むではないかという、少しでも人件費をケチろうという、バッハの超手抜きな本質を表した音楽であると言えるのです。
弦楽3重奏なら、こんな感じです。3人の演奏者、つまり3人分の給料が必要です。
J.S. Bach - Three-Part Invention (Sinfonias) |
No. 1 in C major BWV 787 (string trio arrangement)
この三つのメロディーを2本の手でキーボード演奏してしまおうという、そのからくりはこうです。
右手で高音部のメロディーと中音部のメロディーの高い方の音半分を弾き、左手で低音部と中音部のメロディーの低い方の音半分を弾いて、右手左手が中音部のメロディーを半分ずつ分担して弾いているという仕組みになっているんですね。
こんなことができるなんて、これはもはや人間技(わざ)とは思えず、一体全体、バッハの頭の中はどうなっているのか。
そしてまたさらに、それを弾きこなしてしまう現代のピアニストの皆さんの頭の中もどうなっているのか。
凡人である私には、もはや彼らは天才、いや、宇宙人であるとしか思えません。
J.S.バッハ:シンフォニア第1番 ハ長調
J.S.Bach Sinfonia No.1 BWV787 SHUMPEI演奏
バッハの手抜きその4
4台のチェンバロ協奏曲イ短調BWV1065 は、ヴィヴァルディの丸パクリである
パクリは手抜きの極致と言えますね。
まあ、パクりと言うと人聞きが悪いですが、現代の言葉で言うと「カバーした」「アレンジした」ということになるのでしょうか。
バッハの「4台のチェンバロ協奏曲 イ短調 BWV1065 」は、ヴィヴァルディの「4つのヴァイオリンのための協奏曲 ロ短調 RV 580」のヴァイオリンを、チェンバロに置き換えた曲です。
まず、こちらがバッハ。
「4台のチェンバロ協奏曲 イ短調 BWV1065 」です。BWVはバッハの作品の通し番号です。
Bach - Concerto in A minor BWV 1065 | Netherlands Bach Society
そしてバッハにパクられたオリジナルのヴィヴァルディ。
「4つのヴァイオリンのための協奏曲 ロ短調 RV 580」です。「RV」は、ヴィヴァルディの作品の通し番号です。
Vivaldi: Concerto in B minor RV.580, for four violins - Pham/Gjezi/Darmon/Tudorache - OCNE/Krauze
聞いた感じ、ほぼほぼ同じですが、ヴィヴァルディの方は、主役が「ヴァイオリン」というアナログもいいところの楽器なので、荒削りなオリジナリティと情動的なエネルギーを感じますね。
バッハの方は、ダイナミックでありながら、主役がチェンバロという、あまりアナログ感の無い楽器なので、冷静で洗練された感じがあります。
リトル・リチャードとビートルズ
私はこの事実を知って、ポピュラー界のヒット曲「のっぽのサリー」のオリジナル歌手「リトル・リチャード」と、それをカバーした「ビートルズ」の関係を連想しました。
ビートルズは「リトル・リチャード」のことが大好きで、ライブハウスの演奏でも「のっぽのサリー」をカバーしていたのですが、完璧にコピーした結果、リトル・リチャードを超えてしまいました。
と言うより、完璧にコピーすることによって、完璧以上のものが出て来る、と言えるかも知れません。
そこでビートルズの個性が開放された、と言った方が良いでしょうか。言ってみればビートルズの真の誕生です。
「模倣は独創の母」と言いますが、本当ですね。
ヴィヴァルディとバッハ
バッハも田舎の宮廷で仕事をしていて、その存在を知る由もなかったヴィヴァルディの音楽を、イタリア旅行に行った宮廷の王子が持ち帰った楽譜で知るところとなりました。
Wikiより、アントニオ・ヴィヴァルディ
自分で楽器演奏もしていた王子から、王子が自分で演奏しやすいように編曲してくれ、と言われたのをいいことに、バッハは編曲三昧。
そこでとてつもなく大きな影響を受けたバッハ。
ウィヴァルディのこの曲における発想と技術を完璧に自分のものとしてしまったら、やはりオリジナル以上のものがそこには生まれた。つまりバッハはオリジナルを超えてしまったわけです。
ここでもバッハの個性が解放された、と言えますね。
Wikiより、ヨハン・セバスティアン・バッハ
そこが真のバッハの誕生です。自分の個性に目覚めたバッハは、ここからオリジナリティにあふれた曲をどんどん作って行くことになります。
こちらでも「模倣は独創の母」という原則が生きています。
今回のお話
今回は、「音楽の父」と呼ばれる偉大な作曲家バッハは、実は手抜きの天才だったのではないか、というお話を、四つの根拠からさせていだだきました。
もっとも、作曲上のテクニックとしては、手抜きできるところは手抜きする、というのは、音の動きの自律性を尊重する、という意味で良いことなのだと思われます。
「レットイットビー」ですね。
ヴィヴァルディ(1678年生まれ)とバッハ(1685生まれなので、バッハの方が年下!)は同時代の人間なので、ビートルズのジョンとポールのように、どこかで偶然に出会って、一緒に音楽を作っていたら、一体どんなことになっていただろうと、あらぬ妄想などしてしまいます。