「らんまん」の劇中歌「夏の名残りのバラ」
NHK朝ドラ「らんまん」の劇中で歌われたアイルランド民謡「夏の名残りのバラ」
明治時代、鹿鳴館(ろくめいかん)時代の植物学者、牧野富太郎がモデルの主人公「万太郎」と、のちに奥さんとなる女性「寿恵子」の二人の間の、いわばキーワード曲として、この曲が使われています。
メイヴ「夏の終わりのバラ」
「メイヴ」(méav)、は、本名 Méav Ní Mhaolchatha、メイヴ・ニー・ウェールカハというアイルランドの歌手で「ケルティック・ウーマン」の結成メンバーです。
この歌は、上流階級の「高藤」家のサロンでの演奏会で、「寿恵子」の外国人のダンスの先生であるクララがピアノの弾き語りで英語で歌う歌です。
この演奏会に別々に招待されていた主人公「万太郎」と、のちに奥さんになる「寿恵子」もこの歌に耳を傾け、英語の得意な主人公が、英語が分からない彼女に、その歌詞の意味を要約して解説します。
「愛するものをなくして誰がたった一人生きられようか」
と話すので、それはつまり、彼女にとっては、
「生きるためには愛する人が必要です」
という彼女に対するラブコール的な意味に受け取られたと思います。
私もそう思いましたが、実際の歌詞を読んでみると、実はどちらかと言うと
「愛するもの亡くして誰がたった一人生きられようか」
という悲しいニュアンスの歌詞なんですね。
「夏の名残りのバラ」歌詞
The Last Rose of Summer
夏の名残のバラ
1番)
'Tis the last rose of Summer,
それは夏の最後のバラLeft blooming alone;
一輪だけ咲いて残っているAll her lovely companions
すべての彼女の愛すべき仲間たちはAre faded and gone;
色があせて、行ってしまったNo flower of her kindred,
彼女の木に咲く花はないNo rosebud is nigh,
つぼみも全くないTo reflect back her blushes,
なので、彼女の輝くバラ色を誰かと反映し合ったりOr give sigh for sigh!
ため息をつき合って、なぐさめ合うこともできない
2番)
I'll not leave thee, thou lone one,
私は孤独なる汝を放ってはおかない、To pine on the stem;
茎の上にピン留めはしないSince the lovely are sleeping,
愛すべき仲間たちは眠っているのだからGo sleep thou with them.
汝も行って共に眠るべしThus kindly I scatter
こうやって私は親切に振り散らすThy leaves o'er the bed
汝の葉をベッドである花壇にWhere thy mates of the garden
そこでは庭での汝の仲間たちがLie scentless and dead.
香ることなく、息絶えて横たわっている
3番)
So soon may I follow,
もうすぐに私も後を追うだろうWhen friendships decay,
友情が尽き果てた時And from Love's shining circle
そして愛の輝く輪からThe gems drop away!
宝石たちが落ちて行った時!When true hearts lie withered,
真心が枯れて倒れた時And fond ones are flown,
そして好きな人たちが飛んで行ったらOh! who world inhabit
おお、いったい誰がこの世界で生きられようかThis bleak world alone?
この暗い世界にたった一人でOh! who world inhabit
おお、いったい誰がこの世界で生きられようかThis bleak world alone?
この暗い世界にたった一人で
作詞:Thomas Moore
史実では「万太郎」は95歳まで存命でしたが、「寿恵子」は55歳で早逝していて、「万太郎」は11歳年上なので、その時66歳。実際29年間一人だったことになります。確かにこの歌のような状況であったかも知れません。
バラの立場になってみれば
しかしながら、歌詞を読んで来て、私は思いました。
一本だけ散り残っていてかわいそうに見えるかも知れないけれど、まだ生きて咲いているバラを、その方が親切だと言って、わざわざ摘んでしまって、花壇に散らしてあげよう、って、それはどうなの?
バラ本人にしてみれば、みんながいた頃は楽しかったなあと思い出にふけりながらも、その思い出を頼りに、一人で機嫌よく過ごしているかも知れないじゃないですか。
花壇に一つだけバラが咲いててキレイだねと、通学途中の子供たちが見るのを楽しみにしてくれているかも知れないじゃないですか。
人の気持ちを勝手に決めつけるにもほどがある、に加えて、有無を言わさず摘んでしまうなんて、頼まれてもいないのにおせっかいが過ぎる、とも感じました。(私個人の感想です)
そして、この朝ドラ「らんまん」の主題歌「あいみょん」の「愛の花」の方がはるかに前向きでポジティブだと思いました。
庭の千草
一方、こちらは「夏の名残りのバラ」を翻案した日本の曲、文部省小学校唱歌「庭の千草」です。
作詞は「埴生の宿」も訳詞した「里見 義(さとみ ただし)」。
庭の千草/ダークダックス
庭の千草・歌詞
1番)
庭(にわ)の千草(ちぐさ)も
むしのねもかれてさびしく
なりにけりああ しらぎく
嗚呼(ああ)白菊(しらぎく)ひとりおくれて
さきにけり
2番)
露(つゆ)にたわむや
菊(きく)の花しもにおごるや
きくの花ああ あはれ あはれ
ああ 白菊人のみさをも
かくてこそ
作詞:里見 義(さとみ ただし)
「白菊」は、菊人形や菊の品評会で見かけるような立派な菊ではなく、「庭の千草」つまり庭の雑草の中に咲いている「白い菊」なので、野菊、ひなぎくの仲間だと思われます。
ドラマの中で、「ノジギク」という、日本の菊の原種、という花が登場しました。
こちらがその「ノジギク(野路菊)」です。
Wikiより「ノジギク(野路菊)」
花へのリスペクト
私の歌詞の解釈としては、
🟢 庭のたくさんの草花も虫の鳴き声も枯れて少なくなって寂しいことである。
🟢 そこに白菊が一人遅れて咲いている。
🟢 露(つゆ)、つまり涙の出るようなことにも、しなやかにたわんで耐えている菊の花。
🟢 「おごる」は「おごる平家は久しからずや」の「奢る(おごる)」で、語源が「誇る」なので、ここではその本来の意味の「誇る」として使われている言葉のようですね。なので、この部分の歌詞は、
霜(しも)、つまり生きにくい状況にも毅然と振る舞っている菊の花、
ということになりますね。
🟢 哀れに見えるかも知れないけれど、人間の生き方もかくありたいものである
ということになって、菊の花の生き方を、同情しながらも肯定して称賛して応援している、というふうに読めました。
こんなふうに扱ってもらえたら、菊の花としても、まずまず寿命を最後まで全う出来そうです。
寿命を全うする前に終わらせられてしまった「夏の名残りのバラ」よりは遥かにポジティブな、遅れて咲いた菊の立場を尊重、リスペクトした歌詞だと思いました。
しかしながら、考えてみると、「庭の千草」も、寿命を全うしたところで終わってしまいそうですね。
「あいみょん」の「愛の花」は未来へつながる
その点、この朝ドラ「らんまん」の主題歌、あいみょんさんの「愛の花」は、花の命が終わっても、そこから先につながって行く、未来への希望があるのが素晴らしいと思えました。
あいみょん「愛の花」全曲版
「らんまん」主題歌、あいみょん「愛の花」の歌詞はこちらです。
歌詞を見ると、
「あすのため」
「はなのたね」
で脚韻を踏んでいて、
「かれないわ」
「つながるわ(輪)」
という歌詞でも、「そう来たか!」と思わずヒザをたたいてしまう、意外性のある、気持ちの良い韻の一致が見られます。
花は枯れたとしても、流した涙は永遠に枯れない、それは明日へと、輪のように未来へつながって行く。
なんと前向きでポジティブな歌なのでしょう。
毎朝聞く朝ドラの主題歌としては、その晴れやかな後味で、100点満点だと思います。
今回のお話
今回は、朝の連ドラ「らんまん」の劇中歌「夏の名残りのバラ」は、メロディーが美しいのに(元はアイルランド民謡)、そのメロディーに新たに載せられたトーマス・ムーアによる歌詞があまりに悲観的でネガティブに感じられること。
と言って、同じメロディーに日本語歌詞を付けた「庭の千草」も、悲観的ではないにせよ、あまり発展性のない考え方に思えたこと。
そして、むしろこの連ドラ「らんまん」の主題歌として採用された「あいみょん」の「愛の花」の方が遥かに、悲しみの涙を明日へ、未来へと昇華させる爽やかな歌になっていると感じられたこと。
などをお話しました。